<Review> 高松市美術館 橘美貴

高松市美術館学芸員 橘美貴


循環する運命と選択

新型コロナウイルスの感染拡大が社会に与えた影響は大きく、「新しい生活様式」という言葉に代表されるように、私たちの日常を一変させてしまった。本展は、マスクの着用が日常化し、人と会うことにも神経質になるなか、矢野と土居が自身の境遇の中にある運命と選択を紐解いた展覧会である。

 2020年春頃から日本でも始まったコロナ禍では、それまで当たり前のように目指せていた目標そのものを奪われるケースが多発した。夏の甲子園など各大会の中止に涙する選手たちの姿がニュースで流されたのも記憶に新しい。1年前までは華々しいオリンピックイヤーになると思われていたものが、あらゆる制限のもとで生活しなければならない年になり、突然扉が閉ざされたような感覚を多くの人が味わったのではないだろうか。土居がアイルランド渡航中止後に日本で撮影したという映像を見ていると、暗闇は行き詰まりの世界を、マッチの上をゆっくり進む火は焦りとともに次の行動を見定める心を感じさせる。この年に当たってしまったことは当事者にはどうすることもできない運命だったのかもしれない。壁に張り出された情報量の差が矢野の濃密な1年と土居の空虚な時間を対比させるが、矢野が映す暖炉の炎と土居のマッチの灯、寄せては引くアイルランドの波と畳の上のカーテン、2人の視線はたまに近づいて共鳴するようだ。

 さて、運命が人を翻弄する一方で、私たちは無意識レベルの小さな選択を日々積み重ねている。例えば、目の前の扉を押すか引くかといった選択もそうだ。普段の生活では扉が開けばよく、押したか引いたかは気に留めないだろう。無意識の選択が何かに繋がることは多くないかもしれないが、この会場では文字どおり扉が天井の装置と紐で繋がれ、来場者の選択が一寸先の未来を決定する。装置に何が設置されていたかは運命で、押すか引くかは自身の選択であるというシステムはくじ引きのようなものだが、多くの人は説明を受けるまで自分が何かを選択したことにすら気づかない。

さらに時間を巻き戻すと、来場者は「誰かにあげてしまっていいもの」の選択が必要だったが、この「誰かにあげてしまっていい」というのが難しい。ゴミではいけないし、そのためにわざわざ購入するのも違う。すでに持っているものの中から、自分には不要だが他の人なら使えるような何か、というニュアンスが含まれているのではないだろうか。筆者はミニマリストとは縁遠く、自室には物があふれているが、これに当てはまるものはなかなか見当たらず、悩んだ結果、一度読んだきりの文庫本を持参することにした。これはさきほどの無意識の選択とは対照的な意識的な選択であり、持参したものが装置に設置され、今度は後の来場者の運命となる。この装置では、選択の集積が運命へ、その運命が選択肢となって繋がっていく環境が整えられている。

 同じ目的を持ったにも関わらず、選択したタイミングが違っただけでアイルランドに行けた矢野と行けなかった土居。タイミングの選択は大きくとらえれば、アイルランドを目指すきっかけとなった出来事の違いや2人が生まれた年の違いにまで遡られ、それは運命の違いと言えるだろう。運命と選択が循環する日々の中で、私たちは短期的、長期的な視野を持って選択を見極めてきたはずだが、コロナ禍を生きるという運命において、小さな運命や選択でも大きな結果を導き出してしまうことを強く意識することとなった。ポスト・コロナという時代は2021年1月現在でまだ見えてこないが、今を生きる私たちはより大きな想像力を働かせて生きていくスキルが求められているのだろう。








































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